名古屋駅のホームで泣いていた1世ハルモニ

JR名古屋駅 東海道線下りホーム(現在ホームにベンチはありません)
1960年の春だったと記憶しています。学校から帰宅するために名古屋駅の東海道線下りホームに上がったところ、白いチマ・チョゴリを着た60歳代の朝鮮のハルモニ(お婆さん)がベンチに座って、なぜかシクシク泣いているではありませんか。何か困っているのに日本語ができないので、さぞかし辛くて泣いているのかと思えました。
私は朝鮮中学に入学したばかりで朝鮮語が未だできません。一緒にいた同級生の友人は小学校1年から民族教育を受けているので朝鮮語ができます。
友人に言いました。「君は朝鮮語ができるからハルモニがどうして泣いているのか聞いてあげよう。」
ハルモニに朝鮮語で事情を聴いてみると「切符を無くして困っているのだけど、日本語ができないので駅員さんに相談もできない」とのこと。
駅員さんに事情を話して無事、一件落着です。
友人のことを見直しました。まだ中学1年生なのに朝鮮語ができて偉いなあと心底思いました。
この同級生は2年ほど前に大阪市生野区から岐阜市に引っ越してきて名古屋駅西にある牧野小学校の元分校でもある愛知朝鮮第一初級学校に通っていました。大阪では生野区の御幸森小学校の元分校だった朝鮮学校に通っていたそうです。
当時我が家は、国鉄岐阜駅南口徒歩一分の場所で焼肉屋をしていたので、大阪から岐阜へ引っ越してくる同胞の“案内所”のような場所でした。
岐阜市は終戦後、既製服の製造で栄えた町です。大阪から済州島出身の既製服製造に携わる同胞が沢山引っ越してきました。友人の家族は岐阜へ転居してきた“第一号家族”のような存在でした。
済州島出身の同胞は東京からも岐阜へ引っ越してきた人が相当いました。また、中には済州島からまっすぐ岐阜の親元に来た若い学生もいました。