運命の分岐点で救われ、九死に一生を得た経験。

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1959年12月14日、第1次帰国船が新潟港を出港しました。私が岐阜市内の日本の小学校6年生の時です。
総連の熱心な活動家(分会長)、北朝鮮の熱烈な支持者であった父は、家族5人の帰国申請をしました。1960年3月の卒業を控えて小学校のクラスメイトは、私の送別会を開いてくれました。“養老の滝”のある養老公園に遊びに行きました。寄せ書きもしてくれました。「〇〇君、北鮮(ホクセン)へ行っても頑張ってね!」。だれも「北朝鮮」とすら呼んでくれない時代でした。
私は中学から愛知朝鮮中高級学校に通ったので、小学校の同級生は、私が「“北鮮”に帰った」ものと思っている筈です。
ところが、我が家族の「帰国」に関して総連中央からストップがかかりました。父が総連の活動に熱心だったので「千里馬旗手称号」という国家勲章を授与されたことがあります。日本で3人だけ貰った勲章らしいです。朝鮮大学校のイ・ジンギュ(李珍圭)学長(当時は副学長)、東京の某総連支部の委員長、そして父です。
この勲章を貰った人は「日本で引き続き総連の活動をすべきであって帰国してはならない」と言うのが理由でした。
いやあああああああ。今考えると正に「運命の分岐点で救われ、九死に一生を得た経験」と言えますね。強運に感謝です。
了。
追記:
記事を書いていて思い出しました。1961年5月に愛知朝鮮中高級学校は、名古屋市北区から現在の豊明市(当時は愛知郡豊明町)に移転しました。
確か移転後だったと記憶しています。その時、私は中級部2年生。この時の3学年先輩である高級部2年生のひとクラスが学生全員単身で北朝鮮に帰国するという“事件”がありました。このうちの男子学生と女子学生各1名は、私が良く知っている家庭の子女です。この話はあまり“記事”にはなっていませんが、知っている人は少なくない筈です。みんな幸せな人生を送ったでしょうか。そんな訳ありませんよね、絶対に。残念!
